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広瀬淡窓は江戸時代、いまの日田市豆田町の商家に生まれ、詩人で儒学者でした。幼いころから父に漢字を教わり、後、福岡藩の亀井南冥の門に学びましたが病弱のため2年で帰郷。以後、養生をしながら独学をつづけ、24歳で塾を開きました。これが有名な咸宜園の起こりです。ここに学んだもの4000人ということです。咸宜園に学んだ人は田川地区全域で52人、そのうち英彦山の子弟は23人もいました。
文化7(1810)年、生来病弱な淡窓がやや健康になり、塾を開いたので彦山参詣を思い立ち、門弟たち数人と岳滅鬼峠を越えてきました。
詩は上記のとおり、碑の高さ約2メートル。前日通った岳滅鬼峠を詠んだ詩もあり、高い評価を得ています。
少し登ると、杉田久女の句碑があります。句は「谺して山ほととぎすほしいまゝ」。
昭和の初期、東京日々新聞・大阪毎日新聞の両社が日本新名勝を募り、これに対する俳句を募集して、高浜虚子が選をし、久女のこの句が最優秀句に選ばれ金牌賞を獲得、さらに、帝国風景院賞をも受けました。
高住神社に句碑が建つ、「橡の実」の句は、そのとき銀賞を受けました。