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彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師である。普泰の年に大宰府に来て仏法を広めようとしたが果たせず、光が日子山に指すのを見て、山中の石窟にこもり時期が来るのを待った。継体天皇二十五年のことである。
このころ、豊後国日田郡に藤原恒雄という者がいて、弓射がうまくよく猟をしていた。獣を追って山に入ったときに、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、何でそういうことをしているのかと聞くが言葉が通じない。善正も恒雄に殺生の罪を話すが通じない。そのまま恒雄は猟を続けていたが、善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こり、善正の窟のそばにカヤぶきの小屋を作って住むようになった。それ以後、二人は親しくなり言葉も少しは通ずるようになった。
宣化天皇の3年のある日、恒雄は猟に出て一匹の白シカを見つけ、それが瑞獣であることを知らずに弓で射てシカはその場に倒れた。その時どこからか三羽のタカが飛来し、一羽がくちばしで矢をくわえて引き抜き、一羽が羽をひろげて傷口をなでて血をぬぐい、残りの一羽はヒノキの葉を水にひたしてシカにふくませた。すると、シカは生き返りたちまちに姿を消してしまった。
恒雄はそれを見て、神の仕業とさとり、大いに恥じらい弓矢を捨て家財をなげうって祠を建て、善正が抱いて来た異国の神像(仏様=我が国ではまだ仏陀を知らない。)を安置して祀り霊山と名づけた。みずからは善正の弟子となり忍辱と名のり修行にはげんだ。これが我が国における僧の始めである。
恒雄は更に、シカやタカは仏の本体ではないから、ぜひ仏様に会いたいと祈ると、北岳に現身(法体)を現して「我はもと阿弥陀如来であり、神となって現れた」といい、南岳には俗形で釈迦如来、中岳には女容で観世音菩薩があらわれた。それゆえ三岳の山頂に神祠を建てて祀り、繰返し祭りを行ったことにより神々の霊応ますます顕著となった。
これは、「彦山縁起」に書かれているもので、「彦山縁起」には元亀3(1572)年宗賢坊祗暁透の「鎮西彦山縁起」と、末尾に「元禄7(1694)年夏四月十八日天台沙門孤嶽彦麓湧泉庵に撰す」と記されている「豊之前州彦山縁起」があり、話は後書によった。