佐々木小次郎豊前添田説 その3

2012年7月4日

ここで、当時の細川藩の状況を考えてみますと、藩主の細川忠興は、関ケ原の戦いで、家康側につき、その功績により、豊前国の所領を与えられました。
しかし、忠興が慶長7年(1602年)に小倉城へ入る前、天正15年(1587年)に豊前国一揆が起こっています。これは、豊前の宇都宮鎮房が首謀となって起こしたものですが、この一揆に呼応した者の中に、添田の岩石城に一族七百余人とともに立てこもった佐々木雅樂頭種次がいました。
この一揆は、すぐに鎮圧されましたが、元々、佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます。

 

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私は、沼田家記での小次郎が藩内で剣術の師をしていたとの記述は、細川藩が佐々木一族を懐柔するための策として、初めは小次郎を容認していましたが、藩の支配体制を磐石にするためには、小次郎を排除する必要があり、厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であったのではないかと考えています。
また、小次郎の「岩流」については、佐々木一族は、元々、彦山と深い関わりがあり、小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城から「岩流」と命名したと言われており、天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます
こうした史料から、私は、小次郎が、豊前添田の佐々木一族の出身であり、巌流島の決闘において武蔵に敗れはしましたが、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者であったと考えています。

添田町文化財専門委員長 梶谷 敏明

 

 

以上、3回に分け、佐々木小次郎豊前添田出身説を掲載させていただきました。梶谷さんは、添田町の方々に何か一つでもふるさとを見直すきっかけになればと思い、小次郎添田説の執筆活動や講演を行っています。
この記事を読んだ皆さんが、添田町の歴史について少しでも興味を持っていただければと思っています。