佐々木小次郎豊前添田説 その2

2012年6月6日

「沼田家記」は、細川藩家老の沼田延元の事歴を主に、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたものですが、ここで延元が門司城代でのときの記述を読んでみます。

「沼田家記」原文(永青文庫蔵熊本大学附属図書寄託)

 

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【読み下し文】
一 延元様門司に御座成され候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島後に巌流島と云ふに出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候
此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候

 

【要約】
延元様が門司におられる時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法の師範となった。その頃、小次郎と申す者が岩流の兵法をつかい、これも師範をしていた。双方の弟子達が兵法の優劣を申し立て、武蔵小次郎が兵法の試合することに決まり、豊前と長門の間のひく島 後に巌流島と言う で出合った。双方共に弟子は一人も連れてこないことに決まり、試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。
小次郎は約束どおり、弟子は一人もこなかったが、武蔵の弟子達は来て隠れていた。 その後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって後で打ち殺してしまった。
このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は一団となって、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で島へ押し渡った。このため、武蔵は難を逃れるため門司へ逃げて来て、延元様にひたすらお願いするので、引き受け、城中へ召しかかえ置いたので武蔵は無事に運を開くことができた。
その後、武蔵を豊後へ送りつかわし、石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもを付けて道を警護し無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎というものに渡したということであった。

 

このように、沼田家記では、小次郎は武蔵との決闘で絶命したのではなく、蘇生した後に、武蔵の弟子達によって殺されたという驚くべき内容が書かれています。
そしてもう一つ問題となるのは、延元が武蔵に鉄砲の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。延元の武蔵に対する取扱いは、明らかに不自然で、当時の細川藩に何らかの事情があったのではないかと推測することができます。