毛野村六助伝説


 英彦山高住神社から東へ行き、野峠から大分県側に四キロほど下った東側山中に槻の木の人家があり、その中に「木田孫兵衛墓」と彫った石塔があって、毛谷村六助の墓だといわれる。六助の父は広島の人で佐竹勘兵衛といい、九州の緒方氏を討つために京都郡今井にやって来て、そこで知り合った園部与兵衛の娘との間に生まれたのが六助だという。当時浪人は人家には住めなかったので、犬ヶ岳に登りケヤキのほら穴で夜を明かし、それから六四町下った現在地に村を開いた。毛谷村の名はケヤキからついたといわれる。
 六助は正直で親孝行な男で、きこりをし薪を背負って小倉の町(彦山の町だともいう。)に売りに行った。大変な力持ちで馬の四本足を両手で持って差しあげたという。その力は彦山権現に祈願してさずかり、彦山豊前坊の窟で天狗から剣術を授けられたといわれる。
 そのころ、広島藩の剣術師範に微塵流の京極内匠という者がいて、同じ藩の師範八重垣流の達人吉岡一味斎の娘お園に思いを寄せていた。ところが、お園も一味斎も受けつけないので、内匠は一味斎をやみ討ちして豊前へ逃げた。
 内匠は小倉藩に仕官するために、藩主の前で試合をすることになるが、その前に相手である六助をたずね「老いた母への孝養のために勝たせてもらえまいか」と頼んだ。六助は、その親を思う気持に感激して内匠に勝をゆずった。後になって六助はそれがまったくの偽りであると知り、烈火のごとく怒った。
 ちょうどそのとき、お園は母親と彦山に参詣に来て、六助の家に立ち寄り、あだ討ちの助太刀を頼むので、六助は承諾した。その後、小倉城下でめざす相手の内匠を見つけ、首尾よくかたき討ちを果たせることができた。これが縁で六助はお園と結婚した。
 上津野の高木神社より今川のずっと上流にお園の妹お菊の墓というのがある。父のあだを討つために六助を頼って毛谷村に行く途中、かたきによって殺された。むら人はその悲運をあわれみ、墓石をたてて供養したといわれる。側に大きな松があって、この松に提灯をかけて姉のお園を待ったというので提灯掛の松といわれたが、残念なことに今は枯れてないし、その跡もわからなくなっている。
 六助は後に、豊臣秀吉の前で相撲をとり、三五人に勝ったが、三六人目の木村又蔵に負けたので(三六人抜きしたという話もある。)加藤清正の家臣になり、木田孫兵衛と名乗り、秀吉の朝鮮出兵に従軍して戦死したといわれる。また無事帰国して六二歳で没したという話もある。
 六助のあだ討ちは「豊臣鎮西軍記」という本に天正十四年(一五八六)のことと記されているが、広く人びとに親しまれるようになったのは、天明六年(一七八六)閏十月十八日より大阪道頓堀東芝居で人形浄瑠璃として上演された「彦山権現誓助剣」(梅野下風・近松保蔵作)の当りによる。その内容は、ここに書いた分との相違もあり、例えば吉岡親子はあだ討ちに出発するが、妹お菊は須磨浦で返り討ちになり、六助はお菊の子弥三松を助け、育てている。寛政二年(一七九〇)七月、大坂浅尾弥太郎座で歌舞伎化され、人形浄瑠璃とともに人気狂言として上演された。