緑川のはなし


 彦山川上流の深倉川のあたりに鼻垂彦と耳垂彦という者が住んでいて、大きな勢力を持ち、大和の朝廷に逆らっていた。景行天皇は、熊襲をはじめとする九州の勢力をおさえるために、田川にやって来て鼻垂彦・耳垂彦の軍を破った。そのとき、今の深倉川は血に染まり、血みどろ川と呼ばれるようになった。後世になって「みどろ」が緑に転訛して緑川の名になったという。
 別の話がある。景行天皇の皇子日本武尊の軍勢が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破って、血みどろ川と呼ばれるようになったという。土折居折が日本武尊から討たれたという話は田川市猪膝にもあり、土折居折を切った太刀を洗ったという太刀洗の井戸が、町の出入口の道路そばにある。
 ちなみに、「日本書紀」の景行天皇と田川(高羽)に関する部分を、読みやすく書き直すと次のようである。
 景行天皇の十二年の七月、熊襲が反乱をおこしたので、自らの軍勢を率いて九州に向けて出発した。九月一日周防国の娑麼という所に着いたとき、南の方に煙が多くあがっているのを見て天皇は、賊が居るに違いないと、多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名出、物部臣の祖夏花に状況を調べさせた。
 報告にいうには、豊国の首長の神夏磯媛という女性が天皇が来ることを聞き、サカキを根から引きぬき(英彦山神宮神幸祭にこの形のさきがか使われる。)、その上の枝に八握剣、中の枝には八咫鏡、下の枝には大きな美しい玉を掛け、それを船の舳先に立ててやってくるというのであった。媛が天皇の前に出ていうには、私たちに天皇にそむく気持ちはまったくありません。しかし、悪い賊が四人います。一人は、鼻垂といって、菟狭の川上にいて君主の名を勝手に使っています。二人目は耳垂といって、御木の川上にいて人びとを苦しめています。三人目は麻剥といって、高羽の川上におり、こっそり徒党を集めています。四人目は土折居折といい、緑野の川上にかくれていて人びとをさらっています。この四人とも、それぞれ要害の地にいて人びとを支配し、天皇の命令には従わないといっています。速やかに討ちとって下さいということである。
 天皇はまず、麻剥の一党を誘い出し、赤い上着や袴や珍しい品物を与えて他の三人を呼ばせた。すると他の三人も家来を従えてやって来た。武諸木らはこれらを捕えて殺してしまった。やがて天皇は九州にやって来て、豊前国の長峡県に来て行宮をたてた。そこを京といった。今の京都郡というのである。