花月


 上津野高木神社西方の谷間、後といわれるあたりに、昔、佐藤源左衛門家継という地頭が住んでいた。現在は花月屋敷跡といわれるが、何も残っていない。
 その子に花月という一人息子がなかなか頭が良くて、父親はその子の将来に期待を寄せていた。そのころ、彦山では四王寺(霊仙寺とも)というところを一般に開放して学問を教えていたので、花月もそこに通っていた。ある日、勉強が終わって帰る途中、道ばたの石に腰かけていると、突然天狗が現れて、一じんの風とともに花月をさらって行き、石の上には一つのすずりが残っているだけであった。
 そのことを知った源左衛門は大変悲しんだ。毎日待っていても帰ってこないし、この悲しみを乗りこえようと源左衛門は出家して、我が子を探し求めて諸国行脚の旅に出た。そしてある年の春のこと、京都清水寺に参ったとき、花月と名乗る若い芸人が歌をうたい舞をまうのに出あい、それを見て、我が子であるのに気づくのである。
 謡曲「花月」の一節をあげると「あら不思議やこれなる花月をよく見れば、それがしが童にて失ひし子にて候はいかに、名のって逢はばやと思い候。いかに花月に申すべきことの候」、それに花月が答えて「われ七つの年彦の山に登りしが、天狗にとらわれてかように諸国を巡り候」という。こうして親子対面を果した二人は、これまでの不幸は前世の悪い因縁に違いないと、花月も出家し、仏の道を修行してそろって彦山に帰った。
 添田町には、花月がさらわれたという所が二か所ある。一つは英彦山神宮奉幣殿下の招魂社の裏側で、英彦山修験道館に行く道のそばにある石である。あと一つは、上津野高木神社南側から九州自然歩道が英彦山神宮の方に通じている昔の彦山参詣道である。高木神社の所から一五分くらい歩くと、道の左側の林の中に七ッ石と呼ばれる大きな岩がある。七ッ石は二つに割れていて、天狗が花月をさらうときにけり割ったのだといわれる。その岩から一〇〇メートルばかり高木神社よりに一里塚があって、英彦山神宮からの距離を示していた。近年まで大きな松と「一里塚」と刻んだ石碑があったが、松は枯れ、石碑は見当たらない。北方を見ると日岳の山容が美しく、その途中に花月屋敷があったといわれる。
 なお、英彦山では「彦山の七ッ隠し」といって、子供が外で遊んでばかりいると、親が花月の話をして子供をいましめたという。また、謡曲「花月」は世阿弥元清の作といわれる。しかし、「日本古典文学大系 謡曲集下」(岩波書店)では当時からあった能ではあるがまだその確証がないということである。