彦山名僧伝説(その1)


 彦山は善正が山を開き、忍辱が後を継いで、神仏の教えを広めたが、そのあとを継ぐ者がなく、ながく荒れるにまかされていた。やがて、法蓮という僧が出て忍辱の教えを興したので衆徒は千人にのぼり、中興の祖といわれる。法蓮は宇佐氏で、宇佐郡小倉山で苦修連行し、兼ねて医術をおさめて多くの人びとの病気を直した。その徳風は文武天皇の耳にも達し、大宝三年(七〇三)に詔を発して法蓮の功績に対して豊前国の野四十町を賜った。(「続日本紀」にある)。
 ところが、法蓮の真の願いはまだまだ大きく、このあたり一帯の人びとが豊かに暮らせることであった。そこで、如意宝珠を手に入れ、その力で広く生活に悩んでいる人びとを救おうと考えたのである。するとある夕方のこと、空中から声があって、日子山の窟に摩尼珠があり、神が出し惜しんで守っているが、熱心に求むれば得ることができるであろうという。法蓮は喜んで山中を回ると多聞窟というのがあった。守護神は毘沙門天の化身であり、福徳の名が四方に知られているので、そう名づけられたものである。窟の岩は光り輝き、木の枝はおもしろく、流れ出る水は円く流れて岩をうるおしている。
 法蓮は、この窟の中に宝珠が必ずあるので、それを得ようと、一二年間一心に金剛般若経を読誦し、三所権現と八幡大神に祈願し続けた。それで、この窟を般若窟と呼ぶようになった。それより先、大宝元年(七〇一)八幡大神は唐に渡り三年経って帰って来たが、小倉山に登り地主神の北辰に対して「自分はここに住んで、あなたと一緒に人びとの利益をはかりたいが、どうだろう」とたずねた。北辰は承諾して「西方に山があって、その山の彦山権現は岩窟に玉を埋め、一方の金剛童子に守護させている。その玉を求めてきて、人びとを窮乏から救いなさい」ということであった。
 八幡大神は彦山に向う途中、香春明神に会って相談した。すると香春明神は「岩窟の玉のことはよく知っている。今は法蓮という者が玉を得ようとして修行している。彼に頼みなさい」という。八幡神はさっそく老翁に化けて般若窟に出かけた。法蓮は老翁に会って、神の化身であることを知っていたが、「どこの人か」とたずねると、老翁は「近くの年寄りです。あなたの弟子にしていただきたくて来ました。しかも、あなたにお願いがあります。」と答えた。法蓮が「何ぞや」というと、老翁は「もしあなたが玉を手に入れたら私に下さい。他に何も望みません」というのである。法蓮はその願いを受け入れた。
 法蓮と老翁はますます修行を積むと、予定の一二年にならないのに、霊蛇が玉を握り岩窟を破って現れ法蓮に与えた。法蓮は両手で衣の左袖をひろげて押しいただいた。この窟を玉屋というのはそれからのことである。それ以後この岩窟の穴からは、常に清水が湧き出て、どんな干天でもかれることはなく、体にひたせば病気は治り、飲めば寿命は延び、天下に異変があるときは必ず濁るというのである。
 法蓮は、この玉を得たのは彦山権現の賜と考え、まず上宮に登り、次いで宇佐に行って神徳に感謝の意を表しようとした。二〇余町ばかり行くと、老翁がひざまずいて「宝珠を私にください」という。法蓮は与えるには惜しいと思う気持があり、ことわった。老翁は怒って「僧が約束を破るとは何事か」とののしったので、そこを師忘れ坂という。それでも法蓮は与えたくない。そこで老翁は法蓮に向かって、実際に与えなくてもよいから「お前にやる」といってくれと頼んだ。法蓮は黙っていることができなくなって「お前にやる」といったところが、玉が飛び出して老翁の手中に落ちた。
 老翁は望みがかなえられたと、喜びいさんで走り去った。法蓮はたとえ神のすることでも玉を奪い返そうと決心し、はるか前方に向かって火印を結ぶと、猛火が四方より燃えあがり老翁は逃げるところがない。したがって、その地を焼尾という。ところが老翁は、空中に舞いあがって去った。法蓮もまた飛んで、下毛郡諌山郷猪山(大分県山国町)の頂上から、大声で老翁の悪口をいったので、その声は伊予国の石鎚山まで聞えた。さすがの老翁もこれには閉口し、金色のタカとなり、一匹の黄犬をつれて猪山まで引き返して来た。そしていうには、「私は八幡である。昔は三種の神器で万民を安らかに暮らせるようにしたが、神となった今では、この一つの玉で百王を守りたいので許してもらいたい。私がこの玉を得たら、宇佐宮に安置して地鎮とし、寺を建てて弥勒菩薩を祀り、あなたを寺の主にして恵を広くいつまでも続けたい」と述べた。法蓮も異存があるわけでなく、石の側に立って和解した。それで、その石を和典石という。